あの日の約束

(暗い内容なので影響されそうな方は回れ右)

 

 

毎日を過ごしているとふと昔を思い出すことはよくあると思う。

そして人間は良かった思い出より嫌だった思い出の方を色濃く覚えている気がする。私がそうだから。

自分が一番辛かった時の時系列は全く覚えていないというか多分覚えていたくないんだと思うんだけど、辛かった時の内容はいつも色濃く残っている。

 

ガチな引きこもり時代、リビングに行けなくて母親が部屋にご飯を持ってきてくれていた。ご飯が終わるとすまなそうに母はご飯を下げにきてくれていた。そして夜中から朝にかけて一番目が覚めていたので朝まで起きてそれから寝る。お風呂も歯磨きも何日もしない。

毎日毎日そんな生活を繰り返していた中でのある日テレビでたまたまやっていたとある施設の特集をやっていた。とある女性が自立を目指しその施設に入り自分自身や人生が変わっていくという内容だった。その女性がとてもキラキラして見えたのを覚えている。それを見て親がここに行けばきっと改善すると言い私もそう思ったのでそこから話が進み、色々ありつつも結果その施設に入れることになった。しかし入って1日目、つまり初日からお金が発生しない労働(多分労働体験的なものだったんだと思う)が始まりそんなこと聞いていなかったしそれまでずっと引きこもりで寝たきりだった自分にとってそれは過酷過ぎる事で、だからと言って休む事は絶対に許されずあまりの辛さに何日目かで一回過呼吸もどきになった時があったのだがその際も「そんなの過呼吸じゃない。早く職場に行く!」と職員2人に担がれ職場に連れて行かれたこともあった。

また細かいことだけれど朝の薬を貰うために職員がいる部屋に行って貰いたい旨を言わないといけないのだけれどそれがハキハキ大きな声でしっかり言わないと貰えなくて、どんなに大きな声で言っても「そんなんじゃ聞こえないよ!」と指摘され、薬を貰うまでとても時間がかかった。

そして仕事が終わると夕食の時間になるのだが、同期の人達でご飯を作りみんな(男性8割女性2割)で食べるという形で集団行動と男性が苦手な私にとって仕事と同じくらい休めない空間だった。

夕食が終わると即寮に戻り7時までにお風呂に入って9時までには寝る。

こんな1日を過ごしていた。1日目から地獄だと思った。でもまだ明日からも頑張ればいつか慣れてくるかもしれない。と、少しだけ思えていた。

 

1週間ほど何とか生き抜き、初めての休みの日は実家に帰ったのだが、寮に戻ろうという時間になると身体が拒否反応を示し始めて体調が悪くなってきた。それを見て母はもう少し休んでから電車に乗っていけばと言ってくれたのだが父が私の帰りたくない様子に対して大激怒し始めて

「お前の家はもうここじゃないんだから早く帰れ!!!」と怒鳴ってきた。それでも回復する気配のない私を見て「こうなったら近くのホテルに泊まれ!家には居させないからな!!」と言ってこんなど田舎に何故あるんだろうと不思議な立地にある一番近くにあるビジネスホテルに連れて行かれ深夜にチェックインした。

私はずっと泣き腫らしたのち、寮に何も連絡も入れていないことを思い出してスタッフのある方に翌日仕事には行けそうにないという旨の電話を泣きながらした。するとまず深夜に電話をしてしまった事に対してめちゃくちゃ怒られた。何でもっと早く連絡しないんだ、私は今寝ていたんだぞ!と。そして仕事には絶対に来い、休むなんて認めないと言われて私は早朝電車に乗って寮に戻りまた同じ1日が始まった。

その後も怪我をしたりしたけれど誰も休んだら?とは言わなかった。

それから数日経った夜同室の先輩に(この方がテレビに出ていた)

「今辛い?でもね、これからもっっと辛くなるよ?ずーっと辛いからね?覚悟しないとね!」

と寝る前に言われて頭が真っ白になった。

キラキラに見えていた先輩からキラキラは消え去っていた。

これから一生こんな生活を送るの?しかも今より過酷な生活が待っているの?それで一生が終わるの?

 

なんで、生きていなきゃいけないの?

 

それしか考えられなかった。

自分の頭の中で覚悟を決めた。

‥で、色々やらかしてしまいましたというお話でした。チャンチャン♪

ハードモード過ぎるので詳細は言いませんが自分の人生で一番生死に関わる出来事だったので多分、いや絶対一生忘れないと思う。

甘えていたなと今になると思う。親が激怒するのも当たり前だよな、と。そこで我慢して一人前の社会人になる、その為の施設なんだから。それに施設に入るには当たり前にお金が必要で決して安くない金額を親は私の将来にいわば"投資"してくれたんだと思うと申し訳なかったなと感じている。

ただ同時に当時を振り返ると今が恵まれた環境下にいるんだなと、生きていかないといけないんだなと思える。よくTwitterでビービー言っていても(いつもすみません)どんなに今が辛くてもこの時を思い出すとこの時には戻りたくないなぁと考えを改められる。

誰にでも辛かった時の思い出はあると思う。思い出すのも嫌かもしれない。ただ私の場合ふとそれを思い出したとしてもその当時の気持ちをただただ引きずるのではなく、それを利用してどんな形でもいいから少しでも今に生きる気力を見出す。その方が私にとってお得な気がしている。

入院で出来たお友達(仮)

今まで2、3回精神科の開放病棟閉鎖病棟に入院してきてほんの数人だけどお友達(仮)が出来た事がある。今も連絡を取っている子は1人もいないけども。

そんなお友達(仮)がどんな子だったかを時系列で覚えている限り勝手に載せていくコーナー!(ぱふぱふ

 

・初めての開放病棟入院で出来た1期目のお友達(名前忘れた)

入院中は正直そこまで話していなかったんだけど何故か退院時にLINEを教えてくれて数ヶ月?1年以上かな?やりとりをしていた。

パッと見た感じとても普通の女の子だけど本人曰くかなりの買い物依存症らしく、30代後半の年齢にして高齢の親に大量の洋服を買ってもらっていたらしい。やめたいけどどうしても欲しくなってしまうらしく当時はまだ私は買い物依存症に足突っ込んではいなかったのでそんなにお金ある家でいいなー羨ましいなぁーくらいに思っていた。あと長く付き合っている彼氏がいたらしいけど結婚には至らないという話をしていた気がする。私がいつも返信が遅くて止めてしまっていたけれどすぐに彼女からまた連絡が来てやりとりを何度かする、みたいな会話パターンだったのだがある時を境にぱったりLINEは来なくなり気付いたらトークルームから居なくなっていた。

共通の入院時のお友達がいてその子から鬼電と鬼LINEが来ていて困っている、みたいな話もしていた。あの子とはどうなったのかなーとかたまに思ったりもする。

 

・開放で出来た2期目(自分の中で)のお友達Rちゃん

1期目の若い子団体グループが解体して(大体みんな退院した)新しく若い女の子が入院してきて当時若い女の子がその子と私くらいしかいなかったので話すようになった。見た感じ大人しそうな子で私が学生時代いじめられていたとか友達がいなかったみたいな話をしたら「私もだよー!」と打ち明けてくれて話が合った記憶がある。

その後すぐRちゃんは退院してその時にLINEとマイミクになったのだが(mixi全盛期だったのです)私もやっと退院してRちゃんの情報が見れるようになって見てみたらマイミク数は1000人以上、自己紹介欄は親友と友達紹介のオンパレードで日記は常に◯◯ちゃんと遊んできただの専門時代の同窓会に行ってきたら友達出来ただの入院時代に話した事って何だったのか??と頭に疑問しか浮かばなかった。まぁ別にその子には何の期待もしていなかったからいいんだけど。

その後もLINEで「友達紹介して"あげよう"か?」だの「彼氏紹介して"あげよう"か?」だのいちいち〜してあげようか?発言をされて若干「上からだな‥」と思ったし特に必要もなかったので返信しなかったらいつの間にかLINEからもmixiからも消えていた。今はどうしているかは知らないけど当時の日記を読んでいた限り基本的に短期入退院を繰り返していたようで入院しているか友達と遊んできたか作業所に通っているかの日記しかなかったのでそのどれかをしているのかな、と思っている。

 

・初めての閉鎖病棟で出来た60歳のお友達(名前忘れた)

閉鎖病棟の病室が同じで話すようになった方から退院時に連絡先を教えてもらい(まさか教えてもらうとは思わなかったのでびっくりした思い出)時々メールが来て会いませんかー?みたいな連絡をくれていたのだが、私が退院後は遠いグループホームに入ってしまったこともあり結局会えずじまいだった‥と思っています。うっかり会っていたならごめんなさい。

入院中はいろんな入院患者さんの話で盛り上がったり退院してアレを食べるんだとかあそこのレストランでアレを食べるんだとか食べ物の話も沢山出来て嬉しかったです。

因みにその入院部屋全体も仲が良く、回診時はもうすぐ来るぞー!とか集まってわいわい言っていた思い出とその中の1人の人が毎日夜中にカップ麺食べててその香りが美味しそう過ぎて大変羨ましかった思い出があります。

 

・2箇所目の病院(閉鎖病棟)で出来たお友達

今の病院に入院した時の若い子グループに入っていたけどそこまでガッツリ入っているわけではない子の1人(年上)が何故か私に話しかけてくれてちょこちょこ2人で話していた。と言っても相手の子は自分の子供の話をするのが大好きで私は自分から話すのが苦手だったのでひたすらにお子さんの話を私が聞くという図が出来上がっていた。退院時にはいらない服を貰ったりもして連絡先を教えてくれた。

私も無事に一人暮らしを始めたころに一度2人で会った事があるが、その時もひたすらにお子さんの話を聞いていた。が、私の感想は一緒に食べた牛タン美味しかったなぁである。申し訳ない。

 

閉鎖病棟で出来たお友達2人目

この子は最強だった(悪い意味で)

まず閉鎖病棟の中でも閉鎖的な縛られ部屋(拘束部屋)から始まっていた時点でちょっと訳アリな子なんだと気づくべきだった。が、その時は全く何とも思わなかった。で、何故か若い子グループから外れていた私に一番最初に話しかけてきてくれた。私は当時友達に飢えていたのでとても嬉しかった。その後拘束部屋から出てきてからも私の名前を調べたようで「お肉ちゃんはどこだ?お肉ちゃんと2人で話したい!」と看護師さんに言いまくっていたらしく私はまたも嬉しいなんぞと思ってしまった。後に後悔することになるがまぁ時すでに遅し。

入院中に同じジャニオタで腐ってることもわかり余計に仲良くなった。

退院後一度2人でサイゼでご飯を食べたことがあるのだが、お友達はめちゃくちゃ大声で腐った話をしながら堂々とそういった本を並べてきて私はや、やめてくれ‥と非常に困ったし嫌だった。

その時にやっぱり私はその子とは合わないなぁと感じたのだ。入院マジックによって気が合うと思ってしまったようだ。

その後鬼電がかかってくることもあったりしてますます苦手意識は生まれてきたがまた会う約束をしていた。が、当日に私の体調が悪くなり断りのメールを送るとすぐに電話が来たので出るともんのすごい声のデカさで

「ふざけんじゃねぇよ!!!お前のせいで会えなくなっただろうが!!どうしてくれんだよ!!!今から行って◯してやろうか?!!!!」

と捲し立てられ、恐ろし過ぎて即電話を切って着信拒否とLINEもブロックした。

その後は勿論連絡は取っていないのでどうしているかはわからないが、ある時主治医が彼女の話題を出してきて「いやー、流石にあいつのことは面倒見きれなかったわ〜〜」と匙投げた宣言していたので多分今の病院には通っていないのだと思う。その後もう1人若い子グループの中心にいた子とひょんなことから仲良くなったのだが、その子もこの子から鬼電鬼LINEの被害を受けていたらしく誰にでも平等に接していたんだなとそこだけは感心した。

 

こうして思い返してみると意外と連絡先を交換した子いたなぁと思うのと、自宅が裕福な子が多かったなという点(最後の子の家は医者で某巨大駅から徒歩1分に自宅があると話していた)と総じてみんな連絡マメだったなという共通点があるなと実感する。

 

(2025/11/20初回殴り書き作成)

一度閉店した冷やし中華を再開した理由

最近、テレビを見ることよりもYouTubeを見る方が楽だなーと思うようになり、理由を考えると「見方」が違う事に気付いた。

 

テレビ(特にドラマと推しが出てる番組)を見るときは常に感想を考えている。

あのセリフの裏にはどんな気持ちがあったのだろうか、とかあの時のあの表情は何故だったのだろうか…等。

つまりは能動的に見ているのである。

 

逆にYouTubeは何も考えずに見ている。多分もう既にテレビで放送された番組だったり感想を考える必要のないカテゴリーの番組などだったりするからだ。

だから自分から何かアクションは起こさずボーッと見れる、つまり受動的に見ているのだ。

 

これに気付いた時に自分のブログについても考えてみたらどこか似ているなぁと思った。

 

自分の思いをTwitterの140字で書ききれない時に使おうという目的で作り、リンクをTwitterに貼っていたのだがしばらくしてリンクを消した。

何故なら怖くなったのだ。その怖さは見られている怖さではなく認められているかどうか、の怖さだった。

最初のただただ書きたいから書くだけという目的からはズレていき、もし誰かが見て「分かる!」とか「もっと読んでみたいな」と思われなかったらどうしようという怖さが生まれてしまった。こんなことを思う様な文章なんて書けていないのはわかっているのだが変なところが自信過剰な様でどうしてもこういう怖さが出てしまう。お許しください。

この怖さから自分には認められるような文章を書く能力はないと思うようになり、読まれた数値を見れなくなり、遂には公表していることが辛くなってしまいリンクを消したのだ。

 

別に自分は支離滅裂ではあるけれど文を書く事は嫌いではない。何故なら下書きもリンクを外した後にアップした文章もあるから。

出来ていないのは「数値や感想を気にしない事」だったのだ。

 

数字や承認欲で頭がいっぱいになってしまい自分の文章に蓋をしていた。

違う、そうじゃない。「認めて欲しい」じゃない。「書きたいから書く」んだ。

だったら数字とか関係なくない?究極見なくて良くない?

 

…そう思ったら膨らみ過ぎた何かがパーンと割れてスッキリした。

 

これからは誰かに見られなくても認められなくても自分が書きたいことを書きたい時に書いてそして私は下書きに一度書かないと意味不明な文章が更に意味不明になってしまうので一度バーッと書いたら下書きに保存して何度も書き直していく。

体調が悪いと思考能力も低下するので「書く」作業をいつか毎日「楽しいな」と思えるようになれたらいいなと思っている。

(2020年5月14日 初回作成)

 

 

誰かといる孤独

(これは一人暮らし時代に書いたものです)

学生時代、私は何をするにも誰かと行動していた。それが一番楽しいと思っていたし実際楽しかった。そして何より1人が怖かったし寂しかったから。

 

それは学生が終わってからも続き、ご飯に行くにも何人かで。ライブに行くのもみんなでわいわいと。その一回一回は実に楽しかった。

 

ところがある時を境に私は誰かと行動することに苦痛を感じる様になってきた。

別にそこまで人が嫌いなわけではない。誰かと食べるご飯も美味しいし。でも誰かと食べるご飯は誰かと話すためのツールになっていた。それを一人で食べた時に気付いたのだ。

「これ美味しいよね!」と言い合った時に私は多分そのご飯の美味しさに気付いていなかった。次の日には何を食べたのかすら覚えていなかったし。

だけど一人で食べたご飯の味はとても鮮明に蘇る。そしてその時噛み締めた味を思う存分楽しめた。あと一人で店内にいるからこそ気付けることもある。例えば調理している店員さんの表情とか、どんな風に作っているかとか、店内の細かい内装とか。

こういう事って誰かといたらなかなか見ないし気付かない。

所謂ウォーリーを探せ的な楽しさを感じれるのだ。

 

一回おひとりさまを楽しんでしまったらやめられない。

このご時世が収まったら行きたいお店、行きたい個展、行きたい博物館、水族館のリストが日に日に増えているのでそろそろアウトプットさせて欲しいと切に思う。

逃げてばかりの人生

この間しまむらに行った帰りにまだ明るいし30〜40分くらい久々に図書館行こう!

と意気込んで(あと探している本があったから)向かった。

そしてズラーっと並んでいるうちの空いている席に座ると両脇の子が明らかに若くて「あ!そうか!今受験シーズンやん!!」と納得した。

両脇(特に左側の男の子)の子達は必死にノートに書きこんでいる。

で、左側の男の子が離席した瞬間にチラッと見たら(すみません)参考書に「数B」と書かれていて心底尊敬した。

私も高3の時ちょくちょく図書館には行っていたけど、とにかく問題がわからなすぎて30分くらい経ったら永遠に友達とメールのやり取りをしていたのを思い出して何とも言えない気持ちになった。

私は高1の時から進路も取りたい資格も決まっていた。そして高2からは文系と理系に分かれるんだけど、理系はほぼ男子しかいないし(いじめてきていた奴もいた)一番仲が良かった友達は文系に行くことになっていたから文系を選んでしまったのだ。

私の進みたい学校はバリバリの理系。なのに怖いというだけの理由で辞めたのだ。

そして理系は数3も科学2もやるんだけど文系には無いのだ。その時点で進路を断たれた気がした。ただ唯一数Bは選択制で受けることは出来たけれど、ひたすらに前の席の子と手紙とプリクラの交換をしていたのでテスト用紙を見た時一体何なんだ状態だった。

大体私はそもそも数学が本当に苦手だった。

中学の時から国語はろくに勉強しなくても毎度10位以内だったのに数学はビリから数えて10番目がデフォだった。

だから高校では人の倍は頑張らなければいけなかったのだ。

しかも受験したかった学校の試験科目は数学、英語、化学という一番苦手な科目である種無謀というかあんた文系だよね?という感じだった。

で、その進みたい学校の時間割を見ると当たり前に化学2も数学3も入っていて確実にここに入るみんなはどちらも高校で受けているはず。私は初めての世界なのだ。

この時点でまた文系を選んだことを後悔した。

そして本格的な受験シーズンに入り始めるちょっと前に一般受験の前に指定校推薦と推薦が始まった。

で、うちのクラスの半数は推薦と指定校推薦に決めてほぼ全員受かったのだ。

学校を決める際私の周りの子もみんな指定校推薦の大学を選んでいて、そこでまた私はみんないない中で学校行くのやだなぁという理由で流されてしまい行きたい学校と方向性が全く違う学部の指定校推薦を受けてしまった。(理系ではあったけど)

指定校推薦は小論文と面接だけですり抜けられる、つまり決めた時点でもうほぼ合格なのだ。

そして唯一理系に行った友達(同じ職業を目標にしていた)に

「お前さぁ、理系にも行かなかったし進路も違う学校選んで後悔しないの?今しか無いんだよ?」

と言われたけど流した。

今考えると本当にその子の言った事を実行しなかった自分に嫌気がさしてるしこんな事を言ってくれたお友達に感謝しかない。

そして高校を卒業し、新しい毎日が始まった。

だがしかしそこの学部も理系なので化学2も数Bもあった。

ちんぷんかんぷんだった…え、この四角形?何角形?は何?何なの??状態で人の3倍は頑張って勉強しなければいけないのに毎日眠気と戦っていた。

その上ここも重要なポイントなんだけど私は料理が勉強の100倍嫌いなのだ。

絶対にこのクラスにそんな子いない。当たり前だ。

とにかく毎日料理の日々。地獄でしかなかった。100人分のカレーをみんなで作ろうという授業の時は嫌すぎてお腹が痛くて痛くて仕方なかった。

そして仲良くなった子にも「えっ!化学2高校で受けなかったの?!何で?!理系でしょ??」

と言われて文系でしたなんて◯んでも言えなかった。

そして1年生の終わりに2週間程の現地実習が始まることになり、朝から夕方までひたすら料理をしなければいけないことがあまりにも辛すぎて泣く泣く退学を決めた。

というか1年生の単位を私は全く取れていなかったからどのみち2年生になるのは難しかったとも思う。

 

私も左側の男の子のように必死にやればよかった。というかやらなければいけなかったのだ。何かに付けて理由をでっち上げて逃げてばかりだったのだ。

それからも逃げてばかりの人生で結果思い描いていた大人にはなれなかった。

 

本当に本当に後悔している。もう遅いけど。

それらの事を思い出してしまい読書にも集中できずどんどん憂鬱になり、20分ほどで帰ることにした。

 

風がものすごい強い事を理由につけて1人泣きながら帰った。

でももう後の祭り、今になって気付くなんて遅過ぎる。

 

やっちまった2月

今年の2月12日(日にちあやふや)頃に

事件が起きた。

その日は幻聴が酷く、2階の踊り場に女の人がうろついていてうちの玄関前で包丁を持って入ろうとしている‥とパニック状態になってしまい、これはベランダに出るしかない‥!!

という自分にとって緊急事態となり、ベランダに出たのだけれど女の人は明らかに入ってこようとしているのでもうこれは落ちるしかない!

と思い、もちろん躊躇いはあったけれど◯されるよりマシだ!と決意をしてベランダの手すりによじ登り、落ちた。

一瞬落ちれたのか不安になると同時に夢?幻聴?がまたも起こりしばらく1階の人の庭でうずくまっていたのだけれど、意識が元に戻ると今度はここにいたら不法侵入になってしまう!!とまたもパニック状態になり、結構高い壁を何とか登って思いっきり道路に落ちた。

そして住宅街の方に走って向かい「誰か‥誰か助けて下さい!」と大声で叫んだ。

しかし、深夜だったこともあり誰も出てきてくれない。

そこでちょうど帰ってきた方に助けを求めようと走ろうとしたら走れない。少し歩いただけで倒れてしまう。その様子を見たその方が救急車を呼んでくださり搬送された。

救急車に乗ってからは意識がほぼ無くて気が付いたら病院のベッドにいた。

そして目が覚めると親がいて起きてくれて良かった‥!!と言われた。

どうやら病院の方に結構な重症なので意識が戻るかどうかもわからないと言われたらしい。

そして意識が戻ったことは良かったけれど重症な状態なんだよと改めて言われ、最初はどこが?と思ったのだけれど段々と足に激痛が走り頭もガンガンするし(頭にホッチキスが留められていた)

手は痙攣を起こしていてあー確かに結構キツイなとなった。

とりあえず時間も時間だったのとベランダが開けっぱなしだったので、両親は私のアパートに向かった。

その後寝ようとしたのだけれどまたも酷い幻聴が一晩中続き

(隣の部屋にヤンキー3人組がいて、私が標的にされて色々な嫌がらせを受け続けるといった内容)

こんな生活を毎日起こるなんて絶望でしかない!!と泣きそうになりながらも朝方少しだけ寝て目が覚めると隣にはヤンキーはおらず普通の入院生活に戻ったので心から安堵した。

そして今の私の状態は足の骨が3箇所折れていると言われて確かに激痛がして歩くことが出来ない。そこで納得した。

そこから救急の部屋で過ごすことになり、しばらくはベッドに横になることしかできなかった。

しかし数日経つと少し歩けるのでは?となったので看護師さんを呼んで立ち上がれそうなので補助をお願い出来ますでしょうか?と言うと「えっ、もう出来そうなんですか?!」と驚かれたがとりあえず立ち上がると痛い。痛いけれど数歩を何とか歩けた。

その状態を見て看護師さんが「回復力凄いですね!これなら早めに救急病棟から移動できますよ!」

と言っていただけた。

風邪なんて滅多に引かないし健康だけは自信があるのでこれは何とかなるだろうと思えた。

その後数週間して救急病棟から精神科の救急病棟に移動することになった。

(緊急病棟というくらいなので重症患者が回復してきたら早めに移動しなければいけなかった)

 

精神科の病棟にろくな思いしかないので最初は嫌だなぁと思ったのだけれど、部屋に着くと一応精神科は精神科だけれどプラス救急病棟だからか広い1人部屋、しかもテレビがある、おやつも沢山持ち込みOKではないか!!こんなサービスだらけの部屋だなんてと感動した。

そして少しずつ歩く練習やら何やらをし始めて頭のホッチキスも取れて(めちゃくちゃ痛かった)

手の痙攣もどんどん無くなり(その代わりに足に痙攣が起こり始めてしまったが)

あとは骨折を治すだけとなり、片足に1箇所と反対の足に2箇所折れていたので最初のうちは痛くて仕方なかったのだけれど片足の1箇所が回復してきて2箇所だけになり、2週間強で退院することになった。

だがしかし退院直前もう歩けますよね?と聞かれて本当は片方が痛すぎて普通には歩けなかったのだけれど変に気を使って「大丈夫です」と言ってしまった。

まぁここも精神科且つ救急病棟なのであまり長くはいれないので。

後日聞いたのだけれどここの先生は私の幻聴の再発を酷く心配して(まぁ起こしてしまったことがことだからわからなくはない)最初普通の精神科病棟で半年〜1年くらい入院させようとしていたらしかったのだけれど、いつもの主治医が実家で療養することは決まっていますしそこまで心配することはないですよ、私に任せてくださいと助言してくれたらしく入院は免れた。1年だなんてとてもじゃないけど無理。それこそ発狂してしまう。

主治医に感謝感謝。

そして2ヶ月強実家で療養することになった。

最初は無害だったけれども段々とストレスが増えてきてアパートに戻りたくて仕方なかった。

(要らんでしょうが自分が書きたいのでここからの話はまた改めて詳しくします)

 

とりあえず皆さんに言いたいことは例え2階だからといって飛び落ちるのはやめましょう、です。

 

 

前回の診察まとめ

病院行く日までずっとタヒんでいたので何とかよろよろとバスに乗ってつけたから良かった…と思ったら人はそんなにいないのに2時間くらい待たされて(プラス薬1時間待った)辛かった……

そして呼ばれていつもの如く

「おーお肉生きてたかー?」との第一声。

(毎回これ言われる)

「何とか生きてました(嘘)」と返しました。

 

その後の会話

主治医「お前はなー、毎度毎度生きてないからなぁ〜」

私(よくわかってんな)

主治医「本当何かしら弱ってるからなぁ」

私「はぁ」

主治医「どうだ、最近の近況は」

私「(近況…??)まぁ何とかやっているような気がします…かねぇ」

主治医「お前は勝手に悩みの種産み出すからなー。まーだちゃんとした企業に就職したいとか思ってんのか?」

私「(当たり前だろ)そうですねぇ。やっぱりいつまでもこの状態でいる訳にはいかないですし、私も社会という中に入りたいので…」

主治医「何言ってんだよ。じゃあ今毎日仕事行って働いてる人達全員幸せだなって感じて会社向かってんのか?」

私「いや、まぁ全員幸せとは感じて…いないんじゃないですかねぇ…」

主治医「だろ?毎日毎日上司に怒られながら働いてるやつがウキウキ通勤してる訳じゃないだろ〜。だから大体の人が朝の通勤電車に死んだ目で乗ってる訳じゃん?」

私「まぁ、確かにそうですけども…でもやっぱり自分も社会という居場所を見つけたいといいますか…」

主治医「だってさー、お前一回社会に出て失敗したわけじゃん?それで復帰出来んのか?」

私「(うっっ…)(ダメージ10000000)ま、まぁ確かに…」

主治医「しかもさ、今AIってもんが出てきてこれからどんどんAI社会になってくだろ?あいつ確実に人間より仕事出来んじゃん?そしたらどんどん人間要らなくなるじゃん?医者の仕事だって減ると思うし」

私「はぁ…(確かに正論だけどじゃあそしたら人間みんなどうやって生きていくんだよ)」

主治医「で、人間はやる事大分減るじゃん?そうなったら俺なら仕事に当てられてた時間でやりたいことやるなぁ〜」

私「はぁ…」

主治医「所詮AIには勝てないんだからお前もバリバリ仕事するとかじゃなくて、自分のやりたいことやるとかそういう考え持てよー。まぁAIが出来ないくらい天才的な才能がある奴もいるけどそんな人世の中で一握りしかいねぇじゃん?因みに頂点は大谷翔平だな。だからお前が大谷翔平レベルなら別にいいけどそうじゃないだろ?だから凡人はこれからどんどん仕事でやる事減ってくんだよ。そこ考えてみろって」

私「はぁ…」

主治医「俺なら医者の仕事減ったら違う業種の仕事やってみたりもしてぇなぁ。だってよ、医者の周りにも看護師とか薬剤師とかいるけど不動産業の受付嬢とかめっちゃエロいじゃん?そりゃあ何とか手に入れたいけど俺医者だから無理じゃん?だから不動産業の奴らっていい思いしてるよなぁ〜〜」

私「はぁ…(話逸れすぎだろ)」

主治医「だからさ、とにかくいい企業に入ってバリバリ働くとか古いんだよ。もっと自由に生きる事考えろって」

私「はぁ…(自由に生きるとは?)」

主治医「じゃあこれからのお前の?課題は“自由に生きる“だな!頑張れよ!!」

 

その後ちょこっと薬の話して調整してもらって診察終了しました。

まぁ聞いてると一瞬何言ってんだ?と思うんだけど、私が何度も何度も社会というコミュニティに入ろうとしてドロップアウトしたのは事実だしAIがこれからどんどん社会進出するのも十分にあり得るから考えると主治医の言ってる事ってめちゃくちゃ的を得てるんだよな。と思った。

(不動産業のくだりは関係なさすぎだろと思ったけど)

そして同時に私はこの先社会に戻ることは出来ないのか…と絶望した。正論なんだけどさ。

でもそしたらどうやってこの先生きていきゃいいんだよ……と将来が益々不安でしかなくなってきた。

 

とにかくうちの主治医は普通に企業に就職することを目標にしてまずは作業所に通おうと思っていて…みたいなこと話すと

「まーたお前はそんなこと考えてんのか」

ととにかく否定されるから作業所に通所し始める話は訪看さんと地域何たら(すみません忘れた)のスタッフの方と進めている。

いつまでもこんな生活してるのも辛いんだって。

 

そんな訳で常に主治医とは未来の話が噛み合わないのである。