必死な人見知り

自分は人見知り、というか会話が苦手である。

ネットで文章にして気持ちを吐き出す事は見られてるとさえ思わなければ好かれる好かれない問わず気にしなくて済むから好きだけれど。

 


よく人見知りは大人数での会話が苦痛、などというが私は逆に1対1の会話ほど辛いものはない。

(初対面より2度目、3度目ましてが怖い)

 


大人数なら誰かの意見に便乗して「だよねー」等と相槌を打ちその場を乗り切れるが相手が1人しかいなければ自分が何かしらの意見を産まなければいけないからだ。

そこでもしとんちんかんな意見や相手にとって嫌な意見を述べてしまった日には一瞬で友情は壊れてしまうという恐怖の綱渡りである。

そんな綱渡りを365日24時間のようにしていた日には多分寝込むと思う。

因みに電話もその象徴的なものであると思っているのでかなり心を知れている相手でない限り疲労感が半端ない。

それでも少し前までは友達を増やしたい、沢山の人と繋がりたいという思いから頻繁に人と会っていて月に複数回は2人ないしは3〜4人で会って会話をしていた。

 

そして多分致命的なのは私は沈黙というものが怖いのである。

少しでも会話に間が開くと「やばい、何か話さなければ…!!」と焦ってしまいネットで知り合った人と初めて会うときは黒◯徹子さんばりに一人でベラベラ話してしまう(未だに抜けない)冷静になった今考えればそんな出会った人みんなと必ず仲良くなれるなんてあり得ないのにそれが嫌…というか怖かったのである。

でも結果生まれたのはマシンガントークをしてとんでもない疲労感と話さなければという迫られた緊張から思わず自分が思ってもいない事を話してしまったという背徳感である。

どんなに明るいキャラを振る舞ってもいつか必ずボロが出る、それを3〜4年前に改めて感じ、それからはご飯に行った後に心労が半端なくなってしまう人とは何か用事が無い限り会うこともなくなり、自分から連絡なども取らなくなった。

そしてそんな感じの人の名前もラインで非表示にしたし電話帳なんかは全部消した。

今思うと何をそんなに必死になって友達を作ろうとしていたのかもわからないし人数が増えたところで何の利益が生まれるのだろうかという感じである。

 


つまり当時の自分はリア充っぽい自分を必死に演じ取り繕っていたスーパーコミュ障だったのである。コミュ障なのは一生変わらないし当時リア充には見えていなかったとは思うが。

 


もちろん今も昔も失いたくない人はいる。でも100人も200人も人と繋がって得るものとはなんなのだろうか。必死にやってきた時期はきっと人数が多いければ多い程幸せや満たされている感を得たいと思っていたのだと思う。

これはもしかすると学生時代ろくに友達が出来なかったことからくる一種の憧れ的なものなのかもしれない。

 

ただ今一つ言えてきっとこんな経験をしたことがある人なら誰しもが思っているだろうけどこんな自分と仲良くしてくれている片手で数えるくらいの素晴らしい人と付き合っていく事は確実に幸せであるという事である。