診察記録

主治医がセクハラジジイになってここ最近仕事の話題が多くなってきてるのだが私が医療関係の仕事をしたいと思っていると伝えると「医療関係?人間関係大変だぞ、やめとけやめとけ」と否定され、「将来安泰な企業やら医療関係の仕事やらお前本当父ちゃんの呪縛から抜けられてないなぁ」と毎回言われる。

 

確かに中学生の頃くらいから常々父親からは「女1人でも生きていける資格を取って倒産の心配の無い職種に就け」と言われ続けてきた。そして今もそれが一番正しい道だと自分でも思っている。

そもそも自分には芸術的やらそういう才能は皆無だしそうなったら残された道は安泰な職に就くしかないじゃないかという理由からだ。

 

すると主治医から「お前は一つのことをコツコツやる奴だから職人気質がある。だからそういう職に就くのがいいよ。例えばマグロの解体とか木材とか包丁をひたすらに磨くとかさ」

と非現実的な業種を勧めてきたのでいやいやそんな仕事出来るわけないやろと突っ込みたい気持ちをグッと抑えて話を聞いていた。

 

そして先生の患者さんでサーフィンと場末の女が好きな人がいて(そもそも個人情報喋っていいんかいと思ったがそこもグッと抑えた)鎌倉の海沿いの家に住み込みで働き始めたらしい。お給料は10万そこそこで決して贅沢をして生活はできない金額である。というか生活していけるのか?というレベルである。

しかし彼はサーフィンが出来ればそれでいいらしく、食料もご近所さんから頂いているから食事には困っていないらしい。その上本当に場末の女とも付き合っているとのこと。

そして鎌倉からわざわざここの病院に通院しているらしい。

こちらからしたら例が極端すぎるだろという気持ちになったがそういう生き方をしている人が本当にいるんだなぁと勉強にはなった。

だからといって自分がその生き方をしたいかと問われたら答えは即答でノーである。

趣味を優先して仕事を探すという時点で考えられない。

 

しかし主治医から何故職人気質の仕事を私に勧めたのか理由を言われて色々考えてしまった。

因みに理由は

「仕事ってのは経験がものを言うんだよ。だから例えば10年間一つの企業で働いてきた人間にはどう足掻いても敵わない。だけど一つの職人仕事ならいつから始めても経験年数は積めるし絶対的に勝てるんだよ」

という内容だった。

私が色々考えてしまったのは一つの企業で働いてきた人間にはどう足掻いても敵わないという点である。

今の自分の年齢からして6個下の子が10年働いてきてもおかしく無いし、何なら10個下の子ですら5年以上は働いていてもおかしく無い。そんな人達にはどう足掻いても勝てないということ。

だからもし自分より10個下の社会経験のある子と私が面接を受けたならばほぼ間違いなく10個下の子が採用されるだろう。

職人の仕事云々はどうでも良くて、あなたは普通の企業で働くのはほぼ難しいんだよと遠回しに言われている気分になってとてつもなく凹んだ。

 

因みに私は小学生の時も中学生の時もろくに泳げない人間だったのでサーフィンは到底出来ないと思う。

140字の不思議

Twitterがまだ無かった時代はブログという無限に言葉を書けるツールが主流だった。文字に制限はほぼ無いから例えば1つの単語を発してもその単語についての説明や補足を書けるので誤解などはあまり生じなかった。だがTwitterという140字でしか呟けない世界では1つの単語を発してもそれに長々と理由や補足は書けずその単語だけがダイレクトに他人に届く。それは結果ブログでは見えない単語の影響力を大いに発揮出来て所謂"バズる"という現象が起こる。ただその影響力は時に沢山の人を傷つけるリスクもある。

広い面積に小さい蚊にちょんちょん刺されても勿論痒いけれど小指の間など1箇所を大きな蚊に刺される方が痒さは倍になる。その代わり治った時の爽快感も後者の方が大きい。

それだけ"たった一言"の力は大きいと思う。つまり"たった"では無いのだ。

棘が痛い分クッション性も高いだなんて言葉とはなんて不思議なものなんだと思ってしまう。

勿論全ての言葉がプラスでは無いけれど言葉の"面白さ"をTwitterを始めてから余計に感じるようになった気がする。

 


また、Twitter上でしか出来ないのは140字の言葉でその人の人となりも勝手にイメージ出来る。それは面白いなとやっていてよく思う。勿論ブログ上も同じではあるけれどTwitterの方がよりダイレクトに伝わってくる気がする。

例えばTwitter上では結構バンバンキツめな物言いをしてる人が実際に会ってみると優しさオーラ全開で話し方も柔らかかったり逆にTwitter上では大人しそうな人が実際に会ったらめちゃくちゃパリピだったりと全くもってその人から生まれる言葉とその人自身は違うんだと驚かされるし人柄をも確立させる様な威力を持つ言葉って凄いなと思う。まぁある程度の人格みたいなものは言葉に表れていると自分は思っているけれども。

 


そんな言葉に散々傷付けられて救われてきた今も私は"言葉"を発して誰かの"言葉"を読んで言葉の面白さを感じている。

 

初めての体験

私が中学生になった時、たまたま近くの席にいたNちゃんと仲良くしてもらった。

そしてNちゃんは色々な子と仲が良く、しかも一人一人依存性が高かった。

まずCちゃんは軽めだけれど常々「NちゃんNちゃん〜」と呼んでいた。

そしてYちゃんはたまたま帰り道が同じなのと部活が同じだったのでNちゃんと帰っていたのだがどうにもそれが気に食わなかったようでみんなで帰ればいいじゃんと提案したところ

「どうせNちゃんはお肉ちゃんと話すんでしょ。もういいよ」

と何故かご機嫌を損ねてしまった。

それからYちゃんは一人で帰るようになったらしい。

で、その頃からWちゃんという子が登校拒否になってしまい先生がたまに説得しに行くのだが何故かNちゃんを一緒に行くのだ。

何でやねんとツッコミたい気持ちでいっぱいだったが、どうやらNちゃんを独占できるなら学校に行くと言っていたらしい。

で、教室に戻ってきたら当たり前にCちゃんやらKちゃん(この子もまぁまぁ依存していた)Nちゃんのところにいるので独占はできない。それに憤慨して「私は!Nちゃんと2人でいたいの!」と叫んで次の日からまた学校に来なくなった。勿論他にも男子からバカにされたりもしていたのでそれも理由であったのだろうけど。

で、部活を始めたらまたも独占欲が強いMちゃんが現れた。この子の独占欲は半端なくて部活以外でも昼休みにもNちゃんのところに誰よりも早く行き、私はその頃から違う子と一緒にいてNちゃんも新たに気の合うお友達が出来たようなのだがそんなのお構い無しにズイズイ入っていき、無理矢理会話に入ってきていたらしい(Nちゃん談)そして帰り道が違うことにも非常に憤慨していて「何でお前なんだよ!変われよ!」と私は常に言われていた。

いや、こっちだって変われるなら変わりたいけど家がこっちなんだよ〜〜泣

という心の叫びを毎日叫んでいた。

 

そして中学を卒業して高校生になるとみんなの独占欲は消え、それぞれの居場所を楽しんでいた。

ただ高校を卒業してからMちゃんの独占欲がまた始まったらしく今もハイペースでLINEが来るらしく家事や子育てで忙しいしすぐに返せないからとNちゃんは困っていた。

 

勿論大人になっても依存という現象はあると思う。でも子供(学生?)の時の依存もとても大変なんだな、と感じた。(勿論、互いに納得した上であるのならば問題は無いと思います。)

とりあえずNちゃん、色んな人やら先生からも頼られる毎日から抜け出してみんなと一緒じゃない高校に行けて良かったねと心から思った。

 

 

しょう害者雇用という弊害

私は一般での正社員としての就職を目指している。所謂"クローズ"での就労だ。

勿論出来ることなら自分のしょう害を理解してくれ、少しでも配慮などをしてくれる"オープン"就労の方が助かる。

それをしない、選択しないのには訳がある。

それは"賃金の差"である。

 

これはほぼ皆知っている、というか聞いたことがあると思うが一般雇用と障害者雇用では月給が全く違う。

 

"平成30年度の調査では、障害者別で最も平均賃金が高いのは身体障害者で215,000円、最も低いのは知的障害者で117,000円となっています。
厚生労働省「平成30年賃金構造基本統計調査」によると、一般労働者の賃金の月額は男性が337,600円、女性が247,500円となっており、障害者の賃金とは差があることがわかります。"

(引用元 https://challenge.persol-group.co.jp/lab/fundamental/recruit/recruit008/

 

例えば知的障害者であることをオープンにして女性が働いた場合117000円、一般雇用で働いた場合247500円、単純に差を計算すると130500円も違うのである。

自分で計算してあまりの違いに動揺して3回計算し直した位には違いすぎる。

 

しかしかかる家賃や生活費は変わらない。

 

例えば家賃が50000円のアパートに一人暮らししているとして

家賃 50000円

光熱費 8000〜9000円(ここは地域や会社によってまちまちなのであくまでも参考程度で)

携帯代 9000円(こちらも同じく)

食費  約20000円

これらの必要最低限の生活していくために必要なお金だけでも約87000円、そして勿論賃金がそのまま貰えるわけではない。手取りで貰えるのが約100000円と考えると自由に使えるお金は僅か10000円ちょっと。

このお金で洋服を買ったらそれで終わりでは?

このお金で友達とご飯に行ったらそれで終わりでは?

ここに130500円が足されたら大分変わってくる。大袈裟かもしれないが生活が変わる。

 

お給料が低い分病気に対する考慮などは手厚くはなる。

ただ当たり前にしょうがい者だって健常者と同じ1人の人間である。同じようにご飯を食べてお風呂に入って携帯を使う。

あるサイトでは

"しょうがい者の方は賃金だけでは生活が苦しい。そこで使うのは障害者年金や生活保護である。“

と記載があった。けれどもしょうがい者の方が全て障害者年金を貰えるわけではないし、生活保護は受給に至るには更にハードルが高い。

どちらも貰えない人はどうすればいいのか?

「手厚い配慮をするんだから自由なお金が少なくても文句を言わないでよ」

という声がわたしには聞こえる。

でも考えて欲しい。しょうがいを持つ当事者だって望んでそうなった訳ではないし配慮を申し訳ないと思っているかもしれない。

誰のせいでもないのだ。

だからこそ国は、企業は全ての人に平等な賃金を与えるべきである。

そもそも"一般"雇用と"しょうがい者"雇用という呼び方も個人的に好きではない。

仕事をするために会社が雇用するのはどんな人も同じである。"雇用者"というシンプルな言葉を使って欲しい。

 

今障害者年金や生活保護費は年々減額の道を歩んでいる。

今一度全日本人、いや、人間が平等に生きていく為の問題を真剣に改めていくべきであるとわたしは思う。

隣の芝は一生青い

以前あるテレビ番組で「食べ物のそこだけ食べたい選手権」という企画があり、その中で某チェーン店のチキンの肉部分ではなく皮の部分だけを食べたいという意見が出た。

確かにあのパリパリした部分だけを食べるのはなかなかに幸福感を味わえそうだなぁとテレビを見ながら思っていた。

そして後日その意見を受けてその某チェーン店から特別に皮だけの商品が出てきたのだ。

本人達は歓喜の嵐だった。だがしかし食べ始めてしばらくすると「やっぱり肉の部分も必要だね…」という結果に至ったのだ。

自分の願望が実現したのにいざそれを体験するとその願望に期待しすぎていたんだなと残念な気持ちになったのであろう。

 

これを見て人生もこんな感じなんじゃないのかなと思った。

幸せそうな旦那さんと子供に恵まれて毎日を過ごす主婦になった友人を見て羨ましいなーと思っても実際自分が友人の立場になったらきっと毎日やりたくもない家事をやり、子供中心の生活を送り旦那さんとはたまには喧嘩もするだろう。果たしてそれは自分にとって幸せなのだろうか。だからといって今の病気と共に生きている自分を幸せだなんて1回も思ったことは無いけれども中には病気になったからこそ初めて得たものや周囲の人からの優しさを感じて人生捨てたもんじゃないなと感じている人もいるかもしれない。

きっとどちらも得てみないとわからないのだろう。そしてそれを得るとまた違う人生を歩んでいる人を羨む。

これは人間にしかない特性なのだろうか。

だとしたら随分と厄介な特性だなぁと思ってしまう。

 

”35”と’’36’’

注意・これはあくまでも「私の主観の話」なので

「私は赤いりんごが好きだからみんなも好きだよね?」

ではなく

「私は赤いリンゴが好きなだけで周りにはそう思っていませんよ」

というニュアンスがご理解いただける方のみ読んでもらえた方が精神衛生的に良いと思います。

 

 

最近ハローワークの求人をよく見ているのだが

たまたま私が見た求人が’’年齢制限’’の欄に「35歳以下」という文字が記載されていることが数回あり、正直結構やられた。

 

まず一回目に見た求人はハローワークではない求人で所謂女性の体、容姿を売りにする業種で求人広告には’’30代から40代の方も全然需要はありますのでお気軽にご応募ください!’’との記載があり、面接だけでも言ってみようかな、と軽い気持ちで受けに行ってみた。

そして業務内容の話になった際に3つの分類でお給料や求められるスキルなどが記載された紙を見せて頂いた。

そこには

・1つ目→19歳〜35歳の子 時給2500〜3500円 お給料のレベル→高    求められるスキル→特に無し!元気があれば大丈夫☆

・2つ目→36歳〜50代 時給1500〜2000円 お給料のレベル→低 求められるスキル→トークテクニックと技術

と書かれていた。

見ていただければ一目瞭然だがどう考えても歳を増すほど様々な面において難しいのである。というか厳しい。

ここの求人には「副業レベルでも15万円全然いけます☆」と謳い文句が書かれていたのだがこれはつまり正式には「(20代〜30代前半なら)15万レベルでも全然いけます☆」という事である。

同じ1時間同じ内容のことをやっても36歳以上が貰える時給は半額以下なのである。

加えて20代〜30代前半の子は基本ニコニコしていれば1時間で2500円貰えるのに(もちろんニコニコしているだけの子なんて殆どいないだろうしそれなりの事は頑張ってやっているとは思っています)36歳になった途端トークを頭でフル回転で考えながらもパフォーマンスには差別化を図るため個々様々な工夫をして1時間を過ごして1500円を貰えるのだ。

しかもその説明の用紙には’’お客様からの重要率’’などといういらぬ項目も記載されており、もちろん一番お給料が高い若い子に対する需要率は80%なのに対し、36歳以上に対する需要は35という半分どころではない数値が記載されておりどれだけ世間の男が女性に対して若さを求めていることが改めてわかり当たり前ながら結構ダメージは大きかった。(勿論この数値が全女性に対するものではないです。熟女やそれ以上のお姉さまのお店も現にあるわけですから求めている人がいるのも紛れもない事実なのです)

また’’35’’までというのにも結構なパンチを食らった。たった1歳違うだけでこんなにも変わってしまうものなのか。

改めて自らの身体を売りにした業界で若さがどれだけ重要なのかが改めて感じた。

 

’’35’’の壁は勿論一般職にも結構あったりする。それが二回目に見た求人。

"未経験OK、無資格OK、学歴不問"

と書かれていて頑張って応募してみようかなと思った。しかし最後に書かれていた一言で応募は出来なかった。

それは

「※35歳以下の方でお願いします」

だった。

ダメ元で電話で年齢について聞いてみたところ「いやー流石に36以上で未経験の方は難しいですねぇ」

の一言で終わった。

考えてみれば高校を卒業して18.19歳、短大や大学を卒業したとしても20歳そこらで社会に出ている筈が結婚をした訳でも留学やら新たな道へ進むべく進学などもせずに10年以上一体何をしていたの?という疑問を持つのも当然といえば当然だ。

真っ当な理由がある人は仕方ないと思う。人には人の数だけ人生があるのだから。

しかし私には真っ当な理由が無い。

一番社会に出て勉強すべき時期に学校を辞め、やっと正社員として働き始めたかと思えば環境に馴染めずすぐに辞めてしまいパートやバイトを転々としているうちに30歳を遠に超え遂には引きこもりから仕事そのものが出来なくなっている。

これを面接官に何と取り繕って説明すれば良いのだろうか。

30手前までは自分なりに職歴なりを偽って面接に臨めていたが流石にブランクが10年を超えてしまうと"この仕事を◯年していたとして次の仕事は何年したことにすれば良いんだ?というか前職をかなり長く設定しないと計算が合わない…でも実際そこまで働いてないからこの業種の経験がかなりあると思われたら困る…"

となり、結果"無理矢理"が"無理"になり履歴書を書く事すら困難で応募ができないという悪循環に陥ってしまう。

 

一回目、二回目の求人といいきっと私は選り好みをしているのだろう。けれど選り好みをしてまでも働きたい業種が私にはある。人によってはもちろんそのような制限は無い業種だってあるのだからわがままを言わないでどんな求人も受け入れるべきだと言う意見もあるであろう。(というか年齢的にもこれをそろそろ受け入れなければいけないのだろう)だが私は選り好みをしたい。もう後悔したくない今だからこそやりたい仕事ををやってみたいのだ。

いや、やってみたい仕事をやってみるのに挑戦するのは今しかない、ラストチャンスでしかない。

…こんなだから年齢制限に引っかかってしまうのだろう。そこら辺は理解してます。

 

業種問わず応募して(言い方が悪いけど)特に興味のない仕事に就いて働くしかない日はどんどん近付いている。

訪問看護さんなどはそう言ったお話をすると

「まだまだ若いんだから大丈夫!焦る必要なんてないよ!!」と優しい言葉をかけてくれる。

包括センターの方の相談員の方も同じような言葉をかけて下さる。

私はそんな恵まれた環境下に今居させて貰っている。

ただ、そんな環境下にいるからこそ外部から入ってくる"現実"を突き付けられると

思いっきり右頬にパンチングマシーンで殴られる感覚になる。

福祉による支援をして下さる方々が普段パンチングマシンから私を守ってくださっているんだなとこういう時改めて思う。

だから本当に今支援してくださっている方々には本当に感謝している。

 

ただただ、36歳という今は一番若い。

でも同時に今が一番老けているのだ。

加齢は誰にも止められない。

だから私は今日も生き急いでいる。 

 

"田舎"という小さな世界

 

"高校を卒業して浪人は別として大学、短大、専門学校など何かしらの学校に通っていない子はおかしい"

"大学を卒業して就職していない子はおかしい"

"20代後半になっても結婚していない子はおかしい"

"30代になって家を出てマイホームを持ち、子供がいないとおかしい"

 

どこかの家の子が上記の何か1つでも当てはまらない事がわかればそれはあっという間に広がりあの家の子はまだ結婚をしていないだの何をしているんだのと"異質な子"というレッテルを貼られる。

それが当たり前だから子供も自ずと大人たちの中の「正しい」道を歩まなければいけないと刷り込まれる。それが田舎という"世界"なのだ。

勿論田舎の中にも理解がある地域もあるのだろうけれども少なくとも私の住んでいた地域はその"世界"だった。

 


私が高校を卒業した後くらいに近所の年下の女の子がとても派手なギャルになったことがあった。

その子を玄関先で見かける度に近所のお母さんたちは"異質なもの"を見るようになる。そしてコソコソあることないことを噂する。

その子が派手になったからといって何一つ近所に迷惑なんてかけていないのに"派手になった"だけでまるで犯罪者の様な扱いされてしまうのだ。

 


きっとそんな事で噂をされていた位なのだから当日何度も救急車にお世話になっていた私(我が家)なんて確実にご近所のお母さん方から"異質"扱いをされていただろう。

私の母親は肩身が狭かっただろうと思うと心が痛むがその反面何故母が肩身の狭い思いをしなければいけないのかと疑問に感じてしまう。

 


マイノリティを排除しない動きが活発になっている昨今の世の中がある一方、昭和の時代の"当たり前"が出来ないといけない日本の地域が未だにあるのが現実だ。

じゃあそれを改革をしていけばいいじゃないかと言われるかもしれない。でもそれはなかなかに難しい。あまりにも"当たり前"は頑固にこびり付いていてちょっとやそっとでは取れないからだ。


悲しいが私はこの"当たり前"が消えることは無いと思っている。普通の人が働いている昼間に外を歩けない世界から逃げてきて何時でも外を歩ける知り合いが誰もいない地域に住む世界を生きている今だからこそ余計に感じている。